北奥羽の覇者『南部家』
『南部家』と聞くと岩手県とか盛岡城を思い出すかもしれませんが、南部家を語るなら『三戸城』を忘れてはいけません。
あの歴史シミュレーションゲーム『信長の野望』でも“南部家の本城”として登場するくらい重要な城です。
2022年3月15日に国の史跡に指定されたというニュースを聞き、久しぶりに訪れてみました。
三戸城の歴史
まずは簡単に三戸城の歴史から。
『三戸城』は、南部家24代当主:南部晴政が1558〜1570年頃に築城した山城です。
別名:留ヶ崎城。
東西1.7キロ、比交差約90mの丘を利用した天然の要塞となっています。
元々南部家の本拠地だった『聖寿寺館(しょうじゅじたて)』が、家臣である赤松備中の放火で焼失したことがキッカケで築城したと言われています。※諸説あり
時代とともに南部家の本城は盛岡に移っていきますが、その後も三戸城には城代や代官が置かれて大切にされていたようです。
南部家と武田家
三戸城を訪れると、こういった旗を見かけます。
向かい合った鶴の家紋は南部家の家紋『南部鶴』ですが、その下には見覚えのある有名な家紋が。
そう、甲斐の武田家家紋『武田菱』です。
なぜ南部家家紋と武田家家紋があるのか?
実は南部氏の始祖は、甲斐源氏の一族:加賀美遠光の三男:光信であり、甲斐国南部郷(現:山梨県南部町)を領していたため、“南部”を名乗りました。
合戦で功を立てた始祖:南部光行は、糠部(ぬかのぶ)の奉行を任され、この地に入ったとされています。
つまり甲斐武田家と南部家は、元々同じ一族だったよってことだと思います。
国史跡『三戸城』へ行ってみた
ようやく本題ですが、先日『三戸城』を久しぶりに訪れました。

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正式名称は『三戸城跡城山公園』
現在は公園として整備されており、春は桜の名所としても有名です。

出典:三戸町
お城としては珍しく、本丸が駐車場として整備されています。

本丸跡(駐車場)
平日ということもあって、人はまばらです。

糠部神社。明治11年創建
園内には歴史民俗資料館があり、三戸城や三戸南部氏の歴史を知ることができます。
入館料:一般220円
館内では、三戸城の歴史や仕組みなどが紹介されています。

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撤去される?三戸城温故館
歴史民俗資料館のすぐそばにある三層天守の建物。
こちらが『三戸城温故館』
三戸城天守を復元しているものと思いきや、実は模擬天守。
国史跡指定手続きの際に、文化庁から「史実に基づいていない」と撤去を求められたそうです。
すぐにではないものの、将来的には撤去する方針とのことです。

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三戸城温故館は、歴史民俗資料館の入場券があれば入ることができます。
各階に当時の貴重な資料が展示されています。
最上階は展望台となっており、三戸町を一望できます。

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三戸城を散策
資料館を出て、三戸城跡を散策してみようと思います。
三戸城は細長い形をしており、城の入り口側には重臣達の屋敷がありました。

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山城ということもあり坂道が多く、いい運動になります。
欅御門跡
まず最初に見えるのが『欅御門跡』
この門を境に、南部一門と重臣と分けられていたようです。
現在も盛り土に囲まれたような道が残っています。
北信愛の屋敷
欅御門から下の方に下っていくと見えてくるのが『北信愛屋敷跡』
信長の野望で南部家プレイすれば必ずいる、お馴染みの北信愛の屋敷跡です。
特に何か残っているわけでもありませんが、ゲームをやったことがある人なら聞いたことがある名前に心躍ると思います。
綱御門
こちらの復元されている門が『綱御門』と言い、三戸城の大手門になります。
城を攻められた時に敵側から先の様子が見えない構造になっています。
三戸城の石垣跡
綱御門を過ぎると、少しずつ見えてくるのが三戸城の『石垣跡』。
所々にあるため、あそこに石垣があったんだろうな・・・くらいの予測しかできませんがロマンはあります。
石垣の内側には、熊原川や馬淵川の石を使っていたそうです。
中を除くと丸い石がたくさんあります。
大門跡
本丸跡に戻って、見えてくるのが『大門跡』
本丸の正門になります。
発掘調査によって、数々の遺構が見つかったそうです。

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国史跡になった三戸城へぜひ!
同じ南部家の城として有名な盛岡城や九戸城と同等、それ以上の価値がある三戸城。
北奥羽の覇者である南部家を語るうえで、かつて本城であった三戸城は絶対外せません。

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ようやく歴史的価値が認められて国史跡になったので、今後さらに注目を浴びることでしょう。
今まで三戸城のシンボルだった天守風の温故館は撤去になるようなので、残っているうちに興味のある方は、ぜひ三戸城へ行ってみてください。
アクセス
青い森鉄道三戸駅よりタクシーで10分ほど
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